大判例

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東京高等裁判所 昭和52年(ラ)674号 決定 1979年2月28日

抗告人

野口嘉雄

外五六名

右抗告人ら代理人

平賀睦夫

外二名

相手方

右代表者法務大臣

古井喜実

相手方

株式会社 間組

右代表者

竹内季雄

相手方

大成建設株式会社

右代表者

管澤英夫

主文

本件抗告を棄却する。

抗告費用は抗告人らの負担とする。

理由

一抗告人らの本件抗告の趣旨は、「一、原決定を取り消す。二、債務者らは原決定別紙図面中(イ)、(ロ)、(ハ)、(ニ)の各点を結んだ部分の仙川小金井分水路工事を中止しなければならず、これを続行してはならない。三、債務者らは、右工事によつて既に注入した地盤凝固剤を含む土壌を撤去し、原状に回復しなければならない。四、申請費用は一審、二審とも債務者らの負担とする。」との裁判を求めるというのであり、その理由は、別紙準備書面(写)記載のとおりである。なお、相手方国及び同株式会社間組は、いずれも抗告却下の裁判を求めた。

二抗告人らが、本件仙川小金井分水路工事(以下単に「本件工事」という。)につき、工事の差止め及び凝固剤を含んだ土壌の撤去を求めて本件仮処分申請に及んだ趣旨は、要するに、現在又は将来における健康被害及び井戸水枯渇等の被害が抗告人らに及ぶことを理由として、これを除去し又は予防しようというのであるから、その被保全権利たる工事差止め及び土壌撤去の請求権が認められるためには、これらの被害を現に受けつつあること、又は将来被害を受けるべきことが単なる可能性としてではなく相当程度の蓋然性として存在することが肯定されなければならない。けだし、本件は抗告人らの所有し又は占有する土地内で凝固剤注入の工法が進められているという事案でない以上、抗告人らにおいて、現在何らの被害も受けておらず、単に将来被害を受けるかもしれないという可能性が想定されるにすぎない場合において、あえて本件のごとき工事差止め及び土壌撤去を請求することは、少なくとも私法上の権利としては、これを認めることができないからである。

したがつて、抗告人らの被保全権利については、何よりもまず現在における被害の発生又は将来における被害発生の相当程度の蓋然性が疎明されなければならない。この点につき、抗告人らは、いわゆる公害訴訟における「因果関係」の立証緩和の考え方を採用すべき旨主張する。その論旨は必ずしも明確ではないが、現在被害を受けていないのであればおよそ「因果関係」の立証(本件では疎明。以下同じ。)は問題にならないし、将来における被害の発生はその単なる抽象的な可能性さえ立証すれば足りるという趣旨であれば、その主張は独自の見解であつて採用することができない。なお、仮処分事件では疎明で足りるということから被害の発生は蓋然性でなく可能性であるとすることもできない。証明と疎明とでは心証の程度にこそ違いはあるが、証明ないし疎明の対象という点では、両者の間で何らの相異も存しないからである。

三そこで、抗告人らの被保全権利につき右の点の疎明があるかどうかについて判断するに、まず健康被害の点であるが、抗告人らが現に具体的な健康被害を受けつつあることは、本件の全疎明資料によつても、その疎明がないとするほかはない。

したがつて、問題は将来における健康被害発生の蓋然性であるが、この点につき、抗告人らは、原審以来、その主張を裏付けるために、昭和五〇年四月以降に発生した(1) 神山宇一郎方庭先における凝固剤噴出事故、付近の井戸水の白濁・変色、付近の井戸水及び観測井が水質検査において基準に達しないこと、(2) 井戸水を使用している抗告人田代節子・同林伸光方における家族発疹症状、右抗告人田代節子の夫田代仁の井戸水使用による溶血性貧血とこれに起因する脳症の結果と考えられる死亡事故、(3) 茨城県牛久、竜ケ崎地区等他の地方における類似の健康被害の事例等の各事実を指摘する。

右(1)の点につき検討するに、本件の各疎明資料によれば、立坑周辺の井戸のうちの一部にかつて白濁を生じたことがあつたが現時点では既に解消していること、現時点では工事地付近の井戸水に格別の水質の異常は生じていないこと(ただし、G二五観測井の水質は基準に達しないが、これは、同観測井に限られた特殊の原因によるものであること。)、そして、水質検査は引き続き行われており、基準に達しないときは付近一帯の井戸水につき使用禁止等のしかるべき措置が適時に執られ補完工事も施工され、健康被害が未然に防止され得る態勢にあること等の事実が疎明され、したがつて、将来における健康被害発生の蓋然性はないものと一応認めることができる。なお、詳細は、この点に関する原決定理由(決定書二四丁表初行ないし二九丁裏九行目)のとおりであるからこれを引用する。

次に、右(2)の点につき検討するに、抗告人らの主張に沿う疎明資料もあるけれども、なお因果関係につき疎明ありとすることはできず、その理由は、この点に関する原決定の説示(決定書二一丁表五行目ないし二二丁裏九行目)のとおりであるから、これを引用する。抗告人らは、抗告理由中において、少なくともいわゆる疫学的因果関係は存在すると主張するけれども、いわゆる疫学的因果関係ありとするには、仮処分手続では疎明で足りるとはいえ、かなりの資料が整わなければならないところ、抗告人ら提出の疎明資料では不十分というほかはない。のみならず、問題は将来における健康被害の発生であるから、かつての健康被害ないし死亡事故が地下水汚染に起因すること及びその地下水汚染の原因が本件工事に使用された凝固剤又は補助剤であることの各因果関係につき、そのいずれもが高度の蓋然性をもつて確定されなければ、言い換えると因果関係があるかもしれないという程度では、かつての健康被害等をもつて将来同種被害の発生を推認させることのできないことはいうまでもない。このように、かつての健康被害等の因果関係は抗告人らにおいて疎明しなければならないところ、抗告理由中にはこれと異なる見解に立脚すると解される主張があるが、この主張は採用することができない。そして、抗告人ら主張のかつての健康被害等に関する因果関係については、その高度の蓋然性につき、疎明の程度の心証にも達するに至らなかつたものであり、このことは右に原決定理由を引用して説示したとおりである。

なお、右(3)の他の地方における健康被害の事例については、この点に関する原決定の説示(決定書二二丁裏一〇行目ないし二三丁裏三行目)と同じ理由により、本件には適切でなく又はその原因が明らかでないので本件における健康被害発生の蓋然性を推認させる資料とすることができないものと判断するから、右原決定の説示を引用する。

健康被害については、他に格別のないしは新たな疎明資料もないので、現在における被害の発生又は将来における被害発生の蓋然性は、その疎明がないことに帰着する。

四抗告人らは、更に、本件工事による地下水脈の分断及び揚水に起因する被害(地下水位の低下をはじめ、その詳細は原決定四丁裏九行目ないし五丁裏四行目)を主張するが、その現在における被害の発生又は将来における被害発生の蓋然性については、疎明がないものと判断する。その理由は、この点に関する原決定の説示(決定書二九丁裏一〇行目ないし三一丁裏一〇行目)のとおりであるから、これを引用する。

五以上のように、抗告人らの工事差止め及び土壌撤去を求める請求権の発生要件たる被害の点については、現在における被害の発生はもちろんのこと将来における被害発生の蓋然性の疎明がなく、したがつて、抗告人らの被保全権利はその疎明がないものといわなければならない。

当裁判所の判断は、要するに以上に説示したとおりであり、右判断に関係のあるその余の争点及び右判断に至る細部の点については、これらの点に関する原決定理由のとおりであるから、これを引用する。<中略>

抗告人らは、既に引用し又は右に引用した原決定理由に対し、抗告理由中において種々攻撃を加えているので、検討するに(その一部は既に検討済みである。)、

1  抗告人らは、原決定が、本案前の判断の中で、本件仮処分申請認容のための疎明の程度について示した思考方法を攻撃するけれども、それ自体何ら具体的な主張を伴わないから、次の2以下で個別に検討すれば足りるので、判断を加える限りでない。

2  抗告人らは、次に、原決定は、水ガラス系凝固剤が無害なものでないとしながら、注入された水ガラスの大部分が未反応のままで残るとは考えられず、多量の地下水によつて希釈されるとした上、具体的な健康被害発生の危険性が客観的に存するか否かの検討に入つたが、これは反応するまでの時間及び希釈の程度を明らかにしないまま具体的危険の立証責任を抗告人らの側に押し付けたものと主張する。しかしながら、本件の各疎明資料によれば、水ガラス系を含めて凝固剤一般につき全く無害ではないと言われながらも、そのうち、水ガラス系凝固剤は、有害性による禁止措置も執られておらず、一般に安全性の高い凝固剤とされ、工事に際しては水質の監視その他の所要の措置を講ずべきことが要請されているにすぎないことを一応認めることができる。そうすると、地中における反応までの時間、希釈の程度等につき科学的に解明されているならばともかく、それがいまだ十分には解明されていない以上、裁判所の判断としては、現地における詳細な観測結果等の証拠資料(本件では疎明資料)に基づいて、具体的に危険が発生しているか、その蓋然性が相当程度以上に存するかという点の検討に入るほかないものというべきである。したがつて、原審がかかる検討に入つたからといつて、疎明の負担を必要以上に抗告人らに課したことにはならないから、抗告人らの右主張は採用することができない。

3  抗告人らは、右2の主張に続いて、原決定は、ゲル化しない珪酸ナトリウム又は生成物たる苛性ソーダの一部が地下水に溶出するという可能性は全く否定し去ることはできないとしながら、付近住民の健康に被害を及ぼす蓋然性の疎明がないと判示しているが、健康被害発生の有無の蓋然性については、これを否定する相手方らにおいてその不存在を疎明すべきであると主張する。しかしながら、可能性を全く否定し去ることはできないからといつて、蓋然性につき一応の推定がされるわけではなく、したがつて、原決定が蓋然性の存在の疎明を抗告人らに負担させたことは何ら誤つておらず、抗告人らの右主張は、採用することができない。

4  抗告人らは、相手方らの疎明資料の一部につきその信用性を問題とするけれども、原審は(そして当審も)、本件で提出されたすべての疎明資料を総合勘案し、それぞれの疎明資料の証拠力の足りないところは他の疎明資料によつて相補つた上、前記判断に達したものであつて、その指摘する疎明資料のみによつて心証を形成したものではないから、抗告人らの右主張は採用しない。

5  抗告人らは、本件工事の公共性・公益性を争い、事前調査の不備をも含めて手続上の瑕疵を攻撃するけれども、以上に判断したように、抗告人ら自らの側において、現時点では何らの被害もなく、将来においても被害を受ける蓋然性がない以上、これらの事由をもつて工事差止め及び土壌撤去の請求権発生の根拠とすることのできないことは明らかであるから、抗告人らの右主張も採用しない。

六以上のとおりであつて、抗告人らの被保全権利は疎明がなく、本件の事案にかんがみ疎明に代わる保証を立てさせることも相当でないから、本件仮処分申請は却下すべきである。よつて、これと同旨の原決定は相当であるから、民訴法四一四条、三八四条、九五条、九三条、八九条に従い、主文のとおり決定する。

(岡松行雄 田中永司 賀集唱)

別紙準備書面<省略>

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